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東京高等裁判所 昭和35年(ネ)637号 判決 1962年5月26日

判  決

東京都中央区新富町三丁目七番地二

控訴人(附帯被控訴人、以下控訴人と略称)

株式会社日刊スポーツ印刷社

右代表取締役

川田博美

右訴訟代理人弁護士

石川忠義

丹波景政

右同所同番地二

被控訴人(附帯控訴人以下被控訴人と略称)

広瀬千香

右同所同番地

近藤録郎

右両名訴訟代理人弁護士

永野謙丸

右当事者間の昭和三十四年(ネ)第二、七〇七号賃借権確認、損害賠償、建物明渡請求控訴事件及び昭和三十五年(ネ)第六三七号附帯控訴事件について、当裁判所は昭和三十七年四月三日終結した口頭弁論に基いて、次のとおり判決する。

主文

原判決主文第二項中、控訴人に対し、被控訴人広瀬千香に金十五万円を超える金員の支払を命じ部分及び同第五項をいずれも取り消す。

被控訴人広瀬千香の請求のうち前項において取消した部分の請求を棄却する。

控訴人のその余の本件控訴及び各被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。

訴訟費用は本訴並びに反訴及び控訴並びに附帯控訴とも第一、二審を通じて、これを十分し、その一を被控訴人等、その余を控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決中控訴人勝訴の部分を余くその余を取り消す。被控訴人等の請求を棄却する。被控訴人等は控訴人に対し、原判決添付目録記載の建物部分(以下本件建物部分という)の明渡をせよ。訴訟費用は第一、二審とも全部被控訴人等の負担とする。被控訴人等の附帯控訴をいずれも棄却する」との判決並びに仮執行の宣言を求め被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。原判決中『控訴人は被控訴広瀬千香に対し金二十万円を、被控訴人近藤録郎に対し金十万円を支払え。被控訴人等のその余の請求を棄却する』との部分を取り消す。控訴人は被控訴人等に対し、それぞれ昭和二十八年一月一日から昭和三十年二月十五日までは一ケ月金一万五千円、同年同月十六日からは一ケ月金一万円の割合による金員を支払をせよ。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は左記のほかは、原判決の事実摘示と同一であるから、これを引用する。

被控訴代理人は、次のように主張した

(一)  控訴人には次のような東京都工場公害防止条例違反の事実がある。

(1)  控訴人は昭和二十七年十二月十五日工場設置の認可申請をしているが、このときの申請内容は新聞印刷用輪転機一台、活字鋳造機三台及び紙型製造機、鉛版溶解炉その他附属設備の設置であつた。

(2)  控訴人は上記申請に対する認可のないうちに同年十二月末に輪転機の設置を完了し、翌昭和二十八年一月一日から新聞紙印刷の操業を開始した。

(3)  上記の申請に対し、昭和二十八年四月一日、作業場を二重窓にすること、機械換気をすること及び本件アパートの一、二階の居住者を立退かせるという諸条件で、いわゆる条件附認可なるものがなされた。

(4)  控訴人は昭和三十年三月十七日工場設備の認可申請は認可されていない。

(5)  そこで昭和三十三年四月四日再度増設の認可申請をなした。しかしこの申請に対しても認可がなされていない。

(二)  控訴人は昭和三十年三月の工場設備増設の計画を知つて、直ちに東京都知事と中央区の区会議長に対し、陳情した結果、同年三月二十九日控訴人と被控訴人等居住者間で、既設設備の完全公害防止設備を行い、その完全化を確認した上、新輪転機を設置すること、鋳造機の操業は十時より十八時までとする等の約定(甲第二十四号証参照)が成立した。それにもかゝわらず、控訴人は同年八月二日新に輪転機一台及び鋳造機三台の搬入を強行し、同年九日一日から運転を開始したものである。

控訴代理人は次のように主張した。

控訴人は被控訴人等の本訴提起後、次のように設備の変更をなした。

(1)  昭和三十年二月十四日、二階被控訴人等隣室に設置してあつた活字鋳造機三台を撤去し、現在は活字盤を設置している。

(2)  本件建物部分と作業室の境には木製ロツカー及び活字盤を立てかけ音響を遮断する方法を採つている。

(3)  昭和三十五年十月二十二日一階に設置してあつた輪転機一台を撤去した。

(4)  昭和三十年を通じ竹中工務店をして、(イ)窓を二重窓にし、(ロ)巻取紙は受取台を設けて積み降ろし、輪転機までクレーンで運び、これ等の作業による振動を防止し、(ハ)扉を二重扉とし、その間に防音綿を入れ音響を遮断し、(ニ)工場の内部四辺並びに天井に防音板を張り吸音装置を施し、(ホ)換気装置を施して夏期も扉を閉ざして作業をなし得るようにする等の各防音装置を設置した。

(5)  夜間作業は昭和三十五年十二月三十一日をもつて廃止した。

(6)  三階にある作業室は特に騒音と称すべき作業音を発生することがない。

証拠<省略>

理由

控訴人が株式会社日刊スポーツ新聞社の委託による日刊紙、「日刊スポーツ」の印刷を主たる業務とし、かたわら外註の印刷を業とする会社であつて、昭和二十七年十一月二十九日訴外山崎重工業株式会社から、本件建物部分を含む原判決添付目録記載の鉄筋コンクリート造陸屋根四階建住家一棟(以下本件建物という)を買受け、その所有権を取得したことは当事者間に争がない。

第一、被控訴人等は、被控訴人広瀬が本件建物部分について、賃借権を有すると主張するので判断する。

(証拠)を綜合すれば次の諸事実が認められる。

本件建物はもとその二階及び三階がアパート式住宅の用に供せられていたもので、被控訴人広瀬は終戦前当時の所有者であつた訴外相馬久吉から本件建物部分を居住の目的で、期限を定めずに賃借して居住していた。次で昭和二十三年五月三十一日山崎重工業株式会社が相馬から本件建物を買受けたので、被控訴人広瀬は引き続き同会社との間に本件建物部分を賃料一ケ月金八百三十円、毎月末払の約で、賃貸借契約を継続してきた。そして、控訴人は上段認定のように本件建物の所有権を取得するとともに、被控訴人広瀬に対する本件建物部分の賃貸人としての地位をも承継した。被控訴人近藤は昭和二十年九月十五日頃から本件建物に居住し、被控訴人広瀬の内縁の夫として同棲生活を続けている。

他に右認定を左右し得る証拠はない。

控訴人は、「昭和二十七年十二月二十五日到達の内容証明郵便をもつて、被控訴人広瀬に対し、本件建物部分の明渡しを要求し、その立退きにつき話合を進めたところ、被控訴人広瀬は同年十二月中近所に家を探して貰えば本件建物部分を明渡すといつて、その明渡を承諾したのであるから、これによつて本件建物部分の賃借権を放棄したものである」と主張する。(証拠)によれば、控訴人が昭和二十七年十二月二十五日頃到達の内容証明便をもつて被控訴人広瀬に対し本件建物部分の明渡しを要求し且つ立退先の交渉をなした事実はこれを認めることができるが、その当時被控訴人広瀬が本件建物部分を明渡すことを承諾して、その賃借権を放棄したものと認めるに足りる証拠がないから、控訴人の右主張は採用し難い。

次に、控訴人は「昭和二十八年三月頃控訴人広瀬に対し、中央区明石町十六番地所在明朗荘七九号室(六畳間)を紹介したところ、右広瀬は右室に移転することを承諾したのであるから、これによつて、本件建物部分の賃借権を放棄したものである」と主張する。(証拠)を綜合すると、次の諸事実はこれを認めることができる。すなわち、

控訴人は被控訴人広瀬の移転先を鋭意探した結果、東京都中央区明石町十六番地所在の明朗荘というアパートの二階七九号室(カス、水道、電灯つき六畳間)を見付けたので、昭和二十八年三月六日頃被控訴人広瀬を案内し、右室を紹介したところ、一応気に入つた旨の返答を得た。そこで控訴人は直ちに右室の賃貸人である訴外小池忠造に対し権利金十二万円を支払つて被控訴人広瀬のため右室を賃借し、右被控訴人に対し同室への移転方を交渉した。しかし右交渉において室の畳、建具等の新装、電話移転その他被控訴人広瀬が移転のために要する諸費用はすべて控訴人において負担することについては控訴人が承諾したが、被控訴人広瀬の要求する立退料名義の金三十万円の支払を承諾しなかつたため、結局交渉が纒らず被控訴人広瀬は前記室への移転を承諾しなかつた。そこで、控訴人は被控訴人広瀬から本件建物部分の賃料を引き続き同年十月分まで異議なく受領するとともに、一方被控訴人広瀬が上記室への移転を承諾することを期待して、同年三月以降現在に至るまで右室の賃料及び電灯、水道、ガス等の基本料金の支払を継続し、同被控訴人の移転先としてこれを確保している。

右認定の事実によれば、被控訴人広瀬は控訴人の提供したアパートの一室に移転することを確実に承諾したものではないから、本件建物部分の賃借権を放棄したものとはいえず、他に控訴人主張の被控訴人広瀬が本件建物部分の賃借権を放棄した事実を認め得る証拠はない。

さらに控訴人は本件建物部分の賃貸借契約は正当の事由に基く解約の申入によつて終了した、と主張し、控訴人が被控訴人広瀬に対し、昭和二十七年十二月二十五日到達の内容証明郵便をもつて本件建物部分の明渡を要求し、賃貸借契約解約の申入れをしたことは、さきに認定したとおりである。

(証拠)を綜合すると、次の事実が認められる。

控訴人が山崎重工業株式会社から本件建物を買受けた当時、本件建物はその一階と二階の一部に同会社の店補及び事務所があるほか、二階ないし三階はすべて住居向きの貸室として部屋貸がなされており、被控訴人広瀬を含めて約二十五世帯が居住していた。控訴人は本件建物を買受けるにあたつては右事実は十分承知していたが、上記会社が一階及び二階の居住者は全部売主の責任において、売買契約の日から二ケ月以内に明渡すべきことを約したので、それを信用して買受けた。ところが被控訴人広瀬と他の数名の居住者がよういに各居室の明渡に応じなかつたので、控訴人が自らこれ等の者に対して明渡の交渉をなし、被控訴人広瀬に対して前示の解約の申入れをなした。控訴人は姉妹会社である訴外株式会社日刊スポーツ新聞社発行の日刊紙「日刊スポーツ」の印刷事業を行うために設立された会社で、本件建物内に印刷工場を設置する目的でこれを買受けたものであり、右買受後直ちに印刷工場を設置してその操業を行なつているほか、本件建物内には右日刊スポーツ社も同居しており近時右新聞の増頁、発行部数の増加にともない、控訴人はその事業を拡張し、印刷工場を拡大する必要に迫られており、本件建物部分に被控訴部分に被控訴人広瀬が居住することによつて、その支障をきたしていた。

他面、(証拠)によると、次の事実も認められる。

被控訴人広瀬は終戦以前から本件部分を賃借、居住して著述業者の資料のしう集、原稿の整理等その補助的な業務に従事し、昭和二十年九月頃からは内縁の夫である被控訴人近藤と同棲し、同人は商業美術の図案業をなして、いずれも本件建物部分を生活の根拠として共同生活をなしており、本件建物部分内の設備及び交通その他の地理的環境から本件建物部分に居住することを便利としている。

他に以上の各認定を左右し得る証拠はない。

上段認定の事実によれば、控訴人が本件建物部分を使用する必要のあることは一応認られる。しかしながら、控訴人は本件建物部分には被控訴人広瀬が賃借権を有し、居住していることを十分承知の上本件建物を買受けたのであつて、被控訴人広瀬としては所有者が変らなければ立退きを要求せられることもなく、住居の安定を確保し得たのであるから、控訴人の本件建物部分の賃貸借契約解約の申入が正当なものとして是認せられるためには控訴人の右建物部分を使用する必要性が被控訴人広瀬の居住の為の必要性に比して、より高度のものでなければならないものと解するを相当とする。控訴人はその印刷事業を拡張するために本件建物部分を使用する必要があると主張するのであるが、前認定の本件建物内にその当時株式会社日刊スポーツ新聞社が同居していた事実及び原審並びに当審での検証の結果(原審は第一、二回)によれば、本件建物内における本件建物部分の位置、面積等からみて、控訴人が本件建物部分の明渡を受ければ好都合であることは認められるが、その明渡を受けなければ印刷工場の拡張のために重大な支障があるものとはまだ認めることができず、従つて控訴人の主張する理由だけでは本件建物部分を使用する必要性が、また上記認定の被控訴人広瀬の居住の必要性に勝るものと解することはできない。

もつとも、控訴人が被控訴人広瀬の立退先として中央区明石町十六番地在の明朗荘アパートの一室を提供することを申出て、これを賃借して確保していることは前認定のとおりである。前掲検証の各結果を綜合すると右一室は本件建物部分とはその設備と広さにおいては格別の差異はないが、本件建物部分に比して都電等の交通の便利の悪いことが認められるばかりでなく、前認定の被控訴人等の職業の関係等も考慮するときは、被控訴人広瀬が住みなれた本件建物部分に居住することを便利とする主観的事情も一概に排除することはできないから、右立退先を確保している事実を加えても、まだ控訴人の本件建物部分の賃貸借の解約申入をもつて正当の事由があるものと認めることができない。

以上に認定した事実によれば、被控訴人広瀬は控訴人に対し本件建物部分について、期限の定がなく、賃料を一ケ月金八百三十円毎月払とする賃借権を有するものというべきである。

第二、被控訴人等の損害賠償請求の主張について判断する。

控訴人が本件建物内に印刷工場を設置し、一階に四十五馬力モーター附新聞印刷用高速度輪転機一台を、二階の本件建物部分のすぐ隣に活字鋳造機三台及び紙型製造機を備え付けて昭和二十八年から日刊新聞「日刊スポーツ」の印刷を開始し、日夜その操業を続け、昭和三十年二月十六日に至つて前記活字鋳造機三台を他の場所へ移転したこと及び同年八月中旬頃から一階に上記輪転機のほかに、新に五十馬力モーター附新聞印刷用高速度輪転機一台を備え付けたことは当事者間に争がなく、(証拠)によると、一階の本件建物部門への階段の下の部分には印刷用インキ・タンクを取り付け且つ本件建物部分の階下に当る一階入口に新聞印刷用の巻取紙の搬入口を設けたこともこれを認めることができる。

被控訴人等は、控訴人が昭和二十八年一月一日本件建物内において印刷の操業を始めて以来毎日午前九時に活字鋳造機の輪転が開始され、騒音と震動が連続して午後八時まで続き又鉛が溶けるときに生ずる有毒ガスが悪臭とともに本件建物部分に侵入し、正午頃からは紙型作業が始まり、その騒音は断続しながら午後十二時頃まで続き、午後三時頃から第一版新聞の印刷が始まつて、輪転機の運転が開始され、それが騒音と震動を伝え、これが継続しながら午後十一時からときには翌日の午前一時頃まで続き、その間従業員の罵声、新聞輸送用の大型トツク、オート三輪車の発着の音響、巻取紙の運搬、輪転機えの取付の音響、印刷用インキタンクに附属するモーターの震動等がすさまじく、昭和二十八年中における本件建物部分内における音量は八十ホンから九十ホンを示し、これらの騒音、震動、悪臭等により被控訴人等の居住の静穏が侵害され、精神的及び肉体的の損害を蒙つていると主張するので、以下この点について考察する。

本件建物の所在する東京都中央区新富町三丁目七番地の二が各種会社の建物その他人家の密集する商業地帯であることは、原審(第一、二回)及び当審での検証の各結果によつて認められるところであつて、控訴人の行う印刷工場の操業にともない音響、震動、臭気等の不可量物質を発散することは、この種企業の性質上已むを得ないものであるから、それが他人の利益を害することがあつても、社会共同生活上一般に忍受すべき限度を超えないかぎりにおいては違法性を有しないものというべきである。しかしながら、それが一般の忍受すべき程度を超え他人の利益を侵害するに至つた場合には違法となり、不法行為を構成するものと解するを相当とする。

ところで、上記音響等によるどの程度の侵害が一般に忍受すべきものとして違法性を有しないかの基準を立てることはきわめて困難であつて、社会の通念によつて決するのほかはなく、東京都においては昭和二十九年二月騒音防止に関する条例を定め、各地及び時間による音量の基準を定めて行政上の取締をなしているから、右条例に違反した場合には一応違法性があるものと解するを相当とする。

当審での鑑定人佐藤孝二の鑑定の結果によれば、控訴人の行う操業により発する騒音は前示騒音防止に関する条例(昭和二十九年一月東京都条例第一号)第二条第六号にいう作業音に該当し、本件建物の所在する場所は都市計画法(大正八年法律第三六号)により指定された地域として、同条例施行規則別表の定める第三種区域であることが認められ、同条例第二条第一号、同条例施行規則第三条によれば、その音量の基準は午前八時から午後七時までは六十ホン、午前六時から午前八時まで及び午後七時から午後十一時までは五十五ホンと定められている。昭和二十八年一月一日以降昭和三十年二月十六日までの間において控訴人が本件建物の一階に四十五馬力モーター附新聞印刷用高速度輪転機一台を、二階の本件建物部分のすぐ隣に活字鋳造機を備付け操業を行つていたことは、前段認定のとおりであつて(証拠)を綜合すると次の事実を認めることができる。

控訴人が本件建物内において印刷の作業を行う時間は、毎日午前十時頃から活字鋳造機の運転を開始して午後六時頃まで続け、次で午後五時又は六時から輪転機及びこれに附随して紙型製造機(この機械は断続的に)の運転を始め、午後十二時頃に及ぶのが原則であるが、時に午前九時頃から翌日午前二時頃に及ぶこともあること及び活字鋳造機並びに輪転機が同時に運転することもあつて、右両機械が同時に運転されるときは震動を伴う相当量の騒音を発し、被控訴人等の居住する本件建物部分においては平均七〇ホンないし七五ホンの音量を示すこともあつた。被控訴人等は右震動を伴う騒音の日々の連続によつて住居の平隠をみだされ安眠精神の安定並びに思考の統一を妨げられて仕事の能率を阻害されていた。

(中略)他に右認定を左右し得る証拠はない。

もつとも、当審での鑑定人佐藤孝二の鑑定の結果によれば、活字鋳造機三台運転の場合における本件建物部分における騒音レベルは室中央において四九ホン、作業所の境界において五十三ホン、輪転機一台を運転した場合の本件建物部分内作業場との境界における騒音レベルは四七ホン、及びこれ等機械の運転による震動はほとんど検知できない程度であることが認められるが、上記認定の時期と右鑑定を行つた時期(昭和三六年四、五月当時)との間にはかなりの隔りがあり且つ機械の設置場所にも変動があつたので、右鑑定の結果のあることは時期の点を考えれば上記認定の妨げにはならない。

上段認定の事実によれば、昭和二十八年一月一日以降昭和三十年二月十六日までの間における控訴人の本件建物内における作業音は騒音防止に関する東京都条例の定める基準音量を超過し、これに伴う震動とともに一般に忍受すべき限度を超える違法のものであると解するを相当とし、これを防止しなかつたこととについて控訴人に少なくとも過失があり、よつて、被控訴人等の居住の平隠を侵害し同人等に対し肉体的並びに精神的損害を蒙らしめたものというべきである。

(証拠)を綜合すると、控訴人が昭和三十年二月十六日本件建物部分の隣室にあつた活字鋳造機三台を四階に移動した以後においては、その運転に伴う震動に対してはゴムのパツキンをあてて震動が床にひゞかないようにし、周囲の扉には吸音装置をなす等の防音装置をなしたため、控訴人の行う印刷作業による居室内の騒音は減少し、輪転機二台の騒音レベルは四十八ホン(三台で五十八ホン)であつて、いずれも前記条例の定める基準より小さく、その震動も測定不能の程度に小さいものであることが認められ、右昭和三十年二月十六日以後における活字鋳造機等により震動がそれ以前と同様であつた旨の(証拠)は前掲各証拠と対比して信用することができず、他に前記時期以後における騒音及び震動が一般に忍受すべき限度を超える違法のものであることを肯認し得る証拠がなく、また控訴人に被控訴人等主張のような工場増設の認可がないにかゝわらず機械を増設する等の東京都工場公安防止条例違反の事実があるとしても、それは行政上の取締の対象になることがあるのは格別としてそれだけで直ちに被控訴人等の居住の平隠を侵害する違法行為となるものでないことはもちろんである。

なお、被控訴人等は印刷作業に従事する従業員の音声、新聞運送用のトラツク等の発着、巻取紙の運搬等による音響、印刷用インキタンク附属モーターの運転による震動及び悪臭等によつても被控訴人等の居住の平隠が侵害された旨主張しているが、右音響、震動及び臭気の甚しいことについての立証がないから、右被控訴人等の主張は採用することができない。

次に控訴人は、被控訴人広瀬と控訴人間の本件建物部分の賃貸借契約は前記賃借の放棄若くは解約によつて終了しているのであるから、控訴人の印刷作業による騒音の本件建物部分えの侵入は違法性がないと主張するけれども、右賃借権の放棄又は解約の事実が認められないことは既に認定したとおりであるから、右控訴人の主張は理由がない。

また控訴人は、被控訴人は控訴人が提示した明朗荘に移転することを承諾しながら、これに移転することなく、敢て本件建物部分に居住しているのであるから、印刷作業による騒音を忍受すべきは当然であり、従つて右騒音の本件建物部分えの侵入は違法性がなく、少くともその損害の発生については重過失があると主張する。

しかし被控訴人広瀬が本件建物部分について賃借権を有し、被控訴人近藤も右賃借権を援用し得る関係にあるものと解することができるから、被控訴人等が明朗荘に移転するか、どうかはその自由に決し得るところであつて、控訴人の要求する明朗荘に移転せず、いぜん本件建物部分に居住しているものであるとしても、その一事により前段認定の控訴人の作業による騒音を忍受しなければならないとする根拠がなく且つその損害の発生について重過失があるということもできないから、右主張もこれを採用することはできない。

してみれば、控訴人は被控訴人等が昭和二十八年一月一日以降昭和三十年二月十六日までの間に居住の平隠を侵害されたことによつて蒙つた肉体的及び精神的苦痛に対する賠償として慰藉料を支払う義務があるものというべきである。

(証拠)によれば、前記昭和二十八年当時の年令が被控訴人広瀬は五十六、七歳被控訴人近藤は四十二、三歳であり且つ同広瀬は一ケ月平均六万円余の収入を得ていたことが認められるので、右被控訴人等の年令、職業、収入に、前記認定の本件建物部分に対する占有の態様、侵害の期間並びにその程度等諸般の事情を斟酌してその慰藉料の数額は被控訴人広瀬に対しては金十五万円、同近藤に対しては金拾万円をもつて、相当と認める。

第三、次に控訴人の反訴請求について判断する。

控訴人が反訴請求原因として主張する被控訴人広瀬が本件建物部分の賃借権を放棄した事実の認められないこと及び正当事由に基く解約の申入がその効力を有しないものであることは、既に本訴の判断において認定したとおりである。また被控訴人近藤が被控訴人の内縁の夫であつて、広瀬の有する賃借権を援用してその居住権を主張し得ることも、前示のとおりであるから、被控訴人等に対し本件建物部分の明渡を求める反訴請求は理由がないものというべきである。

以上の理由によれば、控訴人は被控訴人広瀬との間で、同被控訴人が本件建物部分につき賃料一ケ月金八百三十円、期間の定めない賃借権を有することを確認し、且つ被控訴人広瀬に対し金十五万円、被控訴人近藤に対し金十万円を支払うべき義務がある。

よつて原判決中上記と異なる判断のもとに、控訴人に対し被控訴人広瀬に右認定の金十五万円を超える金員の支払を命じた部分は失当で、この点についての本件控訴は理由があるから民事訴訟法第三百八十六条により原判決主文第二項中控訴人に対し、被控訴人広瀬に金十五万円を超える金員の支払を命じた部分を取り消し、右取消した部分の被控訴人広瀬の請求を棄却することとし、原判決中その余の被控訴人等の請求及び反訴請求を棄却した部分は正当で、控訴人のその余の本件控訴及び被控訴人等の附帯控訴はいずれも理由がないから、同法第三百八十四条一項によりこれを棄却することとする。なお、訴訟費用の負担については同法第九十六条、第九十二条、第八十九条第九十三条第一項を各適用して、主文のとおり判決する。

東京高等裁判所第八民事部

裁判長裁判官 村 松 俊 夫

裁判官 伊 藤 顕 信

裁判官 杉 山   孝

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